偏差値38の長距離未経験者が中央大学主将として箱根駅伝を走る物語

エリートのみが集まる世界に、凡人が飛び込む

#19「人型プリウス」

箱根駅伝から月日が経つ。練習の質も高まってきた。

そして迎える2年目の夏合宿。中山とともに、トップチームとして選抜合宿に選ばれた。箱根駅伝出場へグッと近づくことができた。しかし、ここでの争いに勝たなければ箱根駅伝に出場できない。静かなる闘志を燃やす。

トップチームの練習はそう甘くない。初めての30km走で地獄を味わう。

アップダウンの激しい芝生で走る。長い芝生に足を取られ、踏み込むことができない。体力を余計に奪われる。最後の5kmは全神経を走りに特化させる自動運転モードに切り替えることでこなすことができた。その日1日の走行距離は65kmを超えていた。

夏に900kmを超える練習量を積む事で自信をつけた。

 

しかし、秋に控えた箱根駅伝予選会のメンバーに選ばれることはなかった。対照的にここで力をつけてきた中山は予選会のメンバーに選ばれる。

 

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#18「はこねえき伝」

12月に準部員全員が無事、正式な部員になることができた。

そして、年が明け箱根駅伝が訪れる。私は補欠にも選ばれることはなく、チームのサポートに回る。4区の先輩の給水係だ。

初めて走る箱根路がユニフォームではなく、ジャージ姿であることに少しもどかしさを感じながらも、全力でサポートをする。

待機場所に着くと既に人が大勢いる。歩道を途切れず埋め尽くす人の数は異様な光景だった。肌で雰囲気を感じながら給水係としての準備を進める。

上空から聞こえるヘリコプターの音が大きくなってきた。沿道の応援もざわつき始める。巨大な放送車とともに、歓声が波のように迫ってくる。それに続き大学の襷をかけた選手が走ってくる。画面越しに見ていた光景が自分の目の前で起きていることに興奮していた。

先輩も見えてきた。箱根駅伝を走る先輩に給水しながら並走する。左右に埋め尽くされた観客から声援を浴びる。そして永遠に続く人の波。

圧倒されていた

 

20kmではなく20mであったが、初めて体感した箱根駅伝である。

 

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#17「セタガヤの奇跡」

大学前期の講義も終わり、夏が来る。

中山はケガをしていた。同じ準部員の同志とはいえ、ライバルである。ここで差をつける思いで練習に取り組む。

高校時代に全国レベルの実績を残している同期や先輩に食らいついていく、ここでの争いに勝たなければ箱根駅伝に出場することはできない。

死にものぐるいで食らいついた夏合宿も終わり、9月の終わりに5000mの記録会に挑む。前回と同じ轍は踏まない。

しかし、悪魔は微笑む。

私が試合用として持ってきたシューズは練習用のシューズだった。トラックを走るには物足りないつくりになっている。まさかの出来事に動揺したままレースはスタートする。

そんな不安とは裏腹に、体は動く。5分ペースで3kmも走れなかったのが半年前のように感じる。

”いける!“

14分58秒でゴール。準部員の中で1番最初に私は正部員となった。

”コクシカンの悲劇“から一転、”セタガヤの奇跡“を起こしたのである。

 

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#16「努力とは何か」

授業の合間をぬって順調に練習を積めていた。

準部員として活動し始めてから3ヶ月が経ち、5000mの記録会に出ることになった。それまで良い練習が積めていたことと私にとって未知の世界でもあったため、ここで14分台を出して正式な部員になれると自信に満ちていた。

その野心は簡単に打ち砕かれる。

序盤は先頭集団についていくが、気がつくとひとり、またひとりと抜かれていく。私はバック走でもしていたのだろうか、あっという間に最下位になり、そのままゴールした。

タイムは15分49秒。チームでぶっちぎりの最下位、    “コクシカンの悲劇”となった。

減量をした、練習も絶えず行った、努力は報われないのか。いや違う、結果が出ていないのならそれはまだ努力と言えない。自分の未熟さを感じた。

結果が全ての世界に対する無知ゆえの過信があった。それを気づかせてくれた試合である。

 

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#15「マッド・サイエンティスト」

私にはまだまだ多くの試練がある。

それは学業との両立である。理工学部に所属している私は、練習拠点の近くの多摩で授業を受けるチームメイトとは違い、都心にあるキャンパスまで片道1時間かけて通学しなければならない。

朝4時に起床し練習、夜7時に帰宅し練習。限られた時間の中での練習を強いられる。

しかし、そんな言い訳など言ってられない。理工学部だからといって400mハンデを貰えるわけでも、ドーピングが許されるわけでもない。どうやったら差を詰められるのかを考える他ない。

通学中の電車では席が空いていようが座ることを禁じ、移動は全て階段を使う。授業が6階や8階で行われる時でも階段を使い足腰を鍛える。

ひとりで学食を食べていたのも友達がいなかったからではない、精神力を鍛えるためにひとりで食べていたのだ。

 

偉大なる科学者がそうであったように、自分の体を実験体とし、日々研究を重ねる。

 

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#14「精神と時の減量」

基本的な練習にもまともについていけない状態を抜け出すために、強引に減量することを目指す。

原点であり最強である、食事制限で減量することにした。

走りに影響が出てはいけないため、ある程度は食べなければいけないが、炭水化物を極端に減らした。白米はゴルフボール程で抑える。間食は一切しない、水分補給は水のみで生活した。

空腹に耐える精神との戦いである。箱根駅伝に出る、ただその想いだけが私の心と体を繋ぎとめていた。

1ヶ月で56kgにまで戻すことができ、10kg以上の減量に成功した。3kmで走れなくなっていた当初とは異なり、みるみる走れるようになっていた。

 

私の背中についていた脂肪は翼へと変わっていた。

 

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#13「浦島太郎」

中山ともう1人、準部員から一緒にやる仲間を含めて3人で共に部員昇格を目指す。

その日もジョギング練習であったが、来たばかりで土地勘もないので、先輩についていくことにした。それまで自分のペースで練習していたので、少し緊張していた。

軽快に走る先輩についていく。1km5分ペース、陸上部員からしたらなんてことのないペース。もちろん、私も高校時代はそのペースで練習していた。しかし、12kgの重りと2年間のブランクは私の体を老朽化させていた。

大学に受かり、準部員という形でも練習には参加させてもらえる、箱根駅伝を目指せる。有頂天であった私。

こんなすぐに人の体力は衰えるものなのか、私は玉手箱でも開けたのか。とにかく思い通りに体が動かない。

”ヤバい、倒れる“

息は上がり、肺がワイヤーで締め付けられるような痛みに襲われる。ついていくことができない。

走り始めて3kmで限界を迎え、リタイア。1人歩いて帰宅した。

 

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